津市の郷土史家・梅原三千(うめはら・みち)が執筆した『津藩史稿』の翻刻(活字化)を行っています。4か月程度ごとに1巻分ずつの公開を予定しています。
次回は3月頃に第13巻分の公開を予定しています。
凡例
翻刻にあたっては、原史料の意味を損なわない程度に、以下のように取り扱っています。
- 段落はなるべくそのまま再現するようにしましたが、改行位置は必ずしも原史料とは一致していません。
- 漢字は原則として常用漢字を使用することとし、旧字などの異体字についてもなるべく標準的な字体に改めています。
- 変体仮名や合字は平仮名に改めましたが、主に引用文中で助詞に用いられている漢字は原文のまま表記しています。
- 誤字・当て字は原則としてそのままとしています。
- 書き損じと思われる箇所は■とし、「(ママ)」を付しています。
- 判読できない文字は□もしくは[ ]で表記しています。
- 欄外等に記された補足は文字のサイズを小さくして表記しています。
- 図については省略しました。
内容 (リンクのある項目は翻刻したものをご覧になれます)
※ 章や節の番号が一部重複していたり、連続していない場合があります。
巻別
- 第1巻 (第1章第1節から第5節)
- 第2巻 (第1章第6節から第8節)
- 第3巻 (第1章第9節から第12節)
- 第5巻 (第1章第13節から第15節)
- 第4巻 (第1章第17節)
- 第6巻 (第1章第18節)
- 第7巻 (第1章第16節から第19節)
- 第8巻 (第1章第22節から第25節)
- 第9巻 (第1章第23節から第26節)
- 第10巻 (第2章第1節から第6節)
- 第11巻 (第2章第7節から第15節)
- 第12巻 (第3章第1節から第2節)
章節別
第1章 藩祖高虎
- 第1節 祖先世系及父母
- 第2節 高虎の幼時
- 第3節 放浪時代
- 第4節 播但時代
- 第5節 粉川時代
- 第6節 朝鮮征伐前役
- 第7節 板島七万石
- 第8節 朝鮮征伐後役
- 第9節 秀吉薨去後の暗黒時代
- 第10節 関ヶ原
- 第11節 伊予半国
- 第12節 幕府に対する奉仕
- 第13節 賀勢転封
- 第14節 篠山及亀山築城
- 第15節 両城拓参
- 第17節 大阪冬陣
- 第18節 大坂夏役
- 第16節 渡辺勘兵衛の逐斥
- 第17節 日光廟造営
- 第18節 公武合体
- 第19節 上野東照宮造営及法親玉の降請
- 第22節 幕府に対する前記以外の勤労
- 第23節 饗宴 陪宴
- 第24節 神田寄付
- 第25節 南禅寺楼門
- 第23節 皇室崇礼
- 第24節 講学
- 第25節 薨去
- 第26節 逸事
第2章 第二代高次
第3章 第三代高久
- 第1節 観馬館及岩田湊
- 第2節 治蹟
- 第3節 学者の任用
- 第4節 武術奨励
- 第5節 将軍との接近
- 第6節 天朝崇敬
- 第7節 桑名、紀伊との葛藤
- 第8節 高久時代雑感
- 第9節 卒去及び逸事
- 付録 年譜・寛政二年提出系譜
第4章 第四代高睦
- 第1節 継嗣問題
- 第2節 高睦時代概観
- 第3節 殺生禁の影響
- 第4節 卒去
- 付録 高睦略譜
第5章 第五代高敏
- 第1節 目付の来藩
- 第2節 駿相復興工事助役
- 第3節 高敏時代概観
第6章 第六代高治
- 第1節 享保時代
- 第2節 学者の任用
第7章 第七代高豊
- 第1節 高豊の事蹟概要
- 第2節 日光修営
- 第3節 天狗騒動
- 第4節 農村状況の変化
- 第5節 文芸の発達
- 第6節 高豊の退隠及卒去
- 付録 高豊系譜、墓誌銘、年譜
第8章 第八代高悠
- 付録 高悠系譜
第9章 第九代高嶷
- 第1節 明和、安永時代
- 1. 参官道者の通過
- 2. 銀札の発行
- 第2節 天明の飢饉
- 第3節 領土興復の経綸
- 第4節 菓木役所
- 1. 植林
- 2. 樹苗配付
- 3. 椎茸栽培
- 4. 耕地障害木伐採
- 5. 養蚕奨励
- 6. 水運開発の経営
- 7. 菓木事業の経費及其の運用
- 第5節 菓木附帯の諸計画
- 1. 極楽橋維持方法
- 2. 山焼の制限
- 3. 酒類紙類の移入防壓
- 4. 津町商工発展策
- 第6節 津府付近沼水工事及新田開拓
- 第7節 農民暴動
- 1. 切印金百年賦及支拂延期
- 2. 影伐
- 3. 常廻目付及節倹令
- 4. 均田法施行
- 5. 一揆暴発
- 6. 善後の措置
- 7. 一揆関係文書
- 第8節 卒去
- 付録 墓誌銘、年譜
第10章 第十代高兌
- 第1節 倹素の示範
- 第2節 朝幕に対する奉仕
- 第3節 倹政の厲行
- 第4節 民政治蹟の概要
- 1. 養老及旌表
- 2. 義倉積立金
- 3. 救荒
- 4. 鰥寡孤独の救助
- 5. 多子救助
- 6. 農民保護の諸施設
- 7. 灌漑及開墾
- 8. 植樹及養蚕
- 9. 水利及常夜燈
- 第5節 民政署の改革
- 第6節 刑法の改正
- 第7節 建学
- 第8節 千歳山遊園の開設
- 第9節 結城祠の修営
- 第10節 人材任用
- 第11節 高兌の薨去
- 第12節 逸事
- 付録 墓誌銘、年譜
第11章 第十一代高猷
- 第1節 天保の飢饉
- 第2節 異国船渡来
- 第3節 嘉永の凶歉
- 第4節 便宜的開国論
- 第5節 安政大震
- 第6節 海防準備
- 第7節 時局対策提議
- 第8節 攘夷期限決定
- 第9節 大廟奉仕
- 1. 神宮警衛
- 2. 斎宮復興計画
- 第10節 天誅組鎮撫
- 第11節 甲子の変
- 第12節 征長出兵
- 第13節 慶応年間の賑恤
- 第14節 公武間の周旋
- 第15節 山崎関門の奉勅
- 第16節 桑名城監衛
- 第17節 親征扈従
- 第18節 百揆一新(一)
- 第19節 東征
- 1. 江戸入城
- 2. 房総戦記
- 3. 東叡山攻撃
- 4. 小田原衛戌
- 第20節 奥州及蝦夷征伐
- 1. 先発隊
- 2. 相馬降伏
- 3. 椎木口の戦
- 4. 今泉の戦
- 5. 仙台入城
- 6. 津隊の凱旋
- 7. 秋田屯戌
- 8. 文藩兵の助勢
- 9. 蝦夷出兵
- 10. 行賞
- 第21節 百揆一新(二)
- 1. 版籍返上建言
- 2. 鳳輩奉迎
- 3. 藩知事任命
- 4. 職制改革
- 5. 耶蘇教徒の預託
- 6. 高猷の上京
- 7. 庚午の水災
- 8.藩政の発布
- 第22節 庚午の変
- 1. 士隊の憤激
- 2. 長谷部一等の密議
- 3. 辞職勧告
- 4. 伊賀兵来る
- 5. 処分
- 第23節 退隠
- 付録 墓誌銘、年譜
第12章 第十二代高潔
- 第1節 世子時代
- 第2節 藩知事任免
- 第3節 残務整理
- 1. 産物会所
- 2. 増発紙幣の断裁
- 3. 藩債の処分
津藩史稿について
『津藩史稿』は全29巻。津藩初代藩主の藤堂高虎(たかとら)の幼時から、第12代藩主・高潔(たかきよ)の時の藩債処分に至るまでのことがまとめられています。カーボン紙を用いて和紙に手書きしたものと思われ、どの程度の部数が作られたのかは不明です。現在分かっている範囲では、29巻を一括して所蔵している図書館は三重県立図書館のみです。
29巻の構成としては以下のようになっています。このうち高虎の部分については、西山光正氏が現代語訳され、『実伝藤堂高虎』として刊行されています。
第1章 藩祖高虎 → 1巻から9巻
第2章 第二代高次(たかつぐ) → 10巻から11巻
第3章 第三代高久(たかひさ) → 12巻から13巻
第4章 第四代高睦(たかちか),第5章 第五代高敏(たかとし),第6章 第六代高治(たかはる) → 14巻
第7章 第七代高豊(たかとよ),第8章 第八代高悠(たかなが) → 15巻
第9章 第九代高嶷(たかさど) → 16巻から17巻
第10章 第十代高兌(たかさわ) → 18巻から20巻
第11章 第十一代高猷(たかゆき) → 21巻から28巻
第12章 第十二代高潔 → 29巻
なお、上記の内容は全て「第1編 累世紀要」の下にまとめられていて、第2編以降の文章は存在していません。このことからすると『津藩史稿』が未完であった可能性もあります。
梅原は、徹底的に記録を掘り起こし、調査を重ねてから執筆するというスタイルをとっていたといい、このこともあってか梅原の生前には津市史は完成しませんでした。(戦後になって、梅原が残した原稿を元に、西田重嗣(しげつぐ)が津市史を完成させています。)このスタイルは『津藩史稿』でも垣間見られ、資料の引用や考証が頻繁に見られます。
梅原三千について
梅原三千は、元治元(1864)年一志郡久居町戸木に生れ、明治17(1884)年に三重県師範学校の高等師範学科を卒業しました。その後、安濃郡養正小学校四等訓導として教員となりますが、教員生活は三重県に留まらず、明治23(1890)年には大阪府、明治24(1891)年には長野県、そして明治25(1892)年には三重県へ戻り、久居尋常小学校訓導となります。明治29(1896)年には三重県収税局へ入るものの、また学校へ戻っています。
明治31(1898)年には飯南郡書記となりますが、官界に入ってからも明治38(1905)年に栃木県属、明治39(1906)年に秋田県属とめまぐるしく転任をくり返します。明治43(1910)年頃には朝鮮総督府に入り、咸鏡北道(かんきょうほくどう)へ赴任しました。しかし大正2(1913)年2月、上司と対立し職を去り帰国しています。
津へ帰ってからは年金生活に入り、三重新聞の顧問となりますが、翌年には辞しています。勧学院(高田高校)の教員となったほか、また大正12(1923)年から昭和3(1928)年、昭和6(1931)年から8(1933)年まで、津城址の一角にあった藤堂家事蹟編述会や、津市役所の市史編纂局で市史の調査にあたりました。
晩年は白内障に冒され、昭和18(1943)年10月、市内の病院で手術を受けますが、なかなか視力は回復せず、大きな字で手習いした紙が残っています。またこの頃から、狂歌のようなものを書き始めています。また戦争が激化してくると出版も思うにまかせず、和紙にカーボン紙を使って手書きした私製本を作るようになったようです。
昭和20(1945)年7月、津市は米軍の空襲を受け市の中心部に多量の爆弾が投下されました。軍や市役所は各家庭に防空壕を掘ることを勧めますが、梅原家に防空壕はありませんでした。「わしにはアメリカの爆弾は当たらん」と言って壕を掘ることを拒んだようですが、丹精こめて作った庭を、壕堀りで壊すことを嫌ったのだと言う人もいます。
爆撃が始まると、一家八人は押し入れに隠れましたが、付近に爆弾が落ち梅原を含む四人が亡くなりました。遺体は養正小学校の講堂へ集められ、生き残った家族はそこで線香を供えました。その講堂も数日後の焼夷弾攻撃で燃えてしまい、遺体の行方は分かりません。家族は下着を燃やして、その灰を墓に入れたそうです。
梅原の死後、残された原稿類は家族によって友人の郷土史家・鈴木敏雄へ託され、鈴木の死後に三重県立図書館に寄贈されました。