平成16年度、平成17年度に開催した文学コーナー企画展から、三重県ゆかりの作家をあらためてご紹介します。
江戸川乱歩
名張郡名張町(現名張市)出身 小説家
本名、平井太郎。筆名はアメリカの小説家エドガー・アラン・ポーのもじり。本籍は津市。父・繁男、母・菊。父が名賀郡の郡書記として名張市新町(現在桝田病院中庭)に住んでいた時に生まれた。父の転勤に伴い、2歳の頃は亀山に住み、翌年名古屋市に移る。1912年(明治45年)、愛知県第五中学校を卒業後、父の破産で朝鮮に渡るが、向学の志を持って上京、早稲田大学に入学。1916年(大正5年)、政治経済学部を卒業後、種々の職業を経験して、1919年(大正8年)11月には三重県鳥羽造船所電気部社員になった。
1923年(大正12年)には処女作「二銭銅貨」を『新青年』に発表。ついで同誌に「心理試験」「屋根裏の散歩者」などを載せ、奇抜な着想と怪奇な内容によって探偵小説界の第一人者として活躍した。
「陰獣」「蜘蛛男」により通俗小説の傾向が強くなり、「黒蜥蜴」や「怪人二十面相」などの少年小説を書くようになった。戦後は海外推理小説の紹介をする一方、1947年(昭和22年)には探偵作家クラブ(後、社団法人推理作家協会)を設立、その初代会長に就任、日本の推理小説の発展に寄与した。
「わが夢と真実」は、彼の回想録ともいえる作品で、生い立ちや青少年時代のことなどが綴られている。生誕地には「幻影城-江戸川乱歩生誕地」の碑が立ち、名張市立図書館には「江戸川乱歩コーナー」が設置されて、多くの資料が集められている。
(立教大学 江戸川乱歩記念大衆文化研究センター)
岡野弘彦
1924年7月7日 一志郡美杉村川上に生まれる
歌人 国文学者
家は代々の神主の家で、父弘賢の長男。川上尋常小学校、神宮皇学館を経て、1943年(昭和18年)国学院大学入学。大学において生涯の師、折口信夫(釈迢空)に出会い、彼の指導する短歌結社「鳥船社」に入り、1947年(昭和22年)から1953年(昭和28年)の折口没年まで折口の家にあって生活を共にし、短歌及び国文学の薫陶を受ける。
1951年(昭和26年)国学院大学に奉職、学者としての生活に入り、以後、学生部長・文学部長を歴任し、国学院大学名誉教授となる。
迢空没後、歌人としての本格活動に入り、歌誌『地中海』同人をへて『人』を創刊主宰。古典文学と民俗学との深い造詣に裏打ちされたその表現は高く評価され、刊行した6つの歌集の内
- 『冬の家族』により:現代歌人協会賞
- 『滄浪歌(そうろうか)』により:釈迢空賞
- 『海のまほろば』により:芸術選奨文部大臣賞
- 『天(あめ)の鶴群(たづむら)』により:読売文学賞
をそれぞれ受賞した。
また、たびたびNHKTVの「短歌入門」講師を務めるなどして、短歌の一般普及にも努力した。
宮中新年歌会始めの選者と、宮内庁御用掛として皇族方の短歌指導も務める。
尾崎一雄
1899年(明治32年)12月25日から1983年(昭和58年)3月31日
度会郡宇治山田町(現伊勢市浦田町)出身 小説家
神宮皇学館教授であった父尾崎八束と母タイの長男として生まれる。家は神奈川県下曾我(しもそが)村にあり、祖父の代まで宗我(そが)神社の神官を務めていた。3歳の時下曾我村に帰るが、6歳で宇治山田の明倫小学校に入学、翌年まで在学した。「父祖の地」(1935年)には「私が生まれたのは、宇治の五十鈴川のほとりだが、・・・(中略)父と私は、山田の岡本町に移った」とある。
文学との出会いは、神奈川県立第二中学校の頃、志賀直哉の「大津順吉」に感動したことに始まる。1920年(大正9年)、父の死去により21歳で家長となり、進路の自由を得て早稲田高等学院に入学。その後、同大学国文科へと進み、大学の同人誌に「二月の蜜蜂」を発表、文壇でも評価される。在学中に丹羽文雄を知る。
大学卒業後、徒食と濫費から貧窮に陥り、志賀文学の呪縛に苦しむ一方で、新興のプロレタリア文学への反感から、一作も書けない状態が続いた。1931年(昭和6年)19歳の山原松枝と結婚、作家として再起する契機となる。自由闊達(かったつ)な境地を描いた「暢気眼鏡(のんきめがね)」(1933年)を発表、同作を含む短編集で芥川賞を受ける。1944年(昭和19年)、胃潰瘍による大吐血で倒れる。その後、諦念とユーモアから独自の文体を生み出し、「虫のいろいろ」(1948年)に結実する。
故郷の宇治山田を舞台にした作品には、前述の「父祖の地」と『あの日この日』(1975年)があり、いずれも幼少の頃の、特に父の思い出が綴られている。
北園克衛
1902年(明治35年)10月29日から1978年(昭和53年)6月6日
度会郡四郷(しごう)村(現伊勢市朝熊町)出身 詩人
父橋本安吉、母ゑいの二男。本名、橋本健吉。兄橋本平八(1897年から1935年)は日本美術院同人で、独創的な木彫で知られる彫刻家である。
四郷村立尋常高等小学校(現伊勢市四郷(しごう)小学校)、宇治山田市立商業学校(現宇治山田商業高校)、中央大学経済学部を卒業する。
1924年(大正13年)、詩誌『GE・GJMGJGAM・PRRR・GJMGEM』を創刊し、1929年(昭和4年)、第一詩集『白のアルバム』を刊行。1931年には宇治山田出身の岩本修蔵と詩誌『白紙』を創刊する。1935年創刊の詩誌『VOU』は、1978年に160号で終刊するまで北園克衛が編集発行した。この『VOU』は、形象・非形象について、あるいは言葉の機能について、理論的に裏づけされた詩の実験をたえず試み、斬新なデザイン感覚と、きびしい芸術家精神を持ち続けた北園克衛に私淑して集まった多くの詩人たちの拠点であった。
北園克衛の著作は、詩集、英文詩集、訳詩集、短編小説集、句集、評論集など38冊にのぼるが、絵にも写真にもポエジイ溢れる作品を残し、海外の詩人との交流にも積極的であった。北園克衛の詩は非経験主義による作品が多い中で、リリカルで「郷土詩」と自称する作品もかなりある。30歳半ば以降、帰郷しなかった彼ではあるが、これらはあきらかに故郷朝熊のイメージによる作品である。伊勢市朝熊町には生家が現存している。
斎藤緑雨
河曲郡神戸新町(現鈴鹿市神戸)出身 小説家 評論家
斎藤緑雨は、本名・賢(まさる)。幼名を俊治といい、慶応3年12月30日、河曲郡神戸新町75番屋敷(現鈴鹿市神戸2丁目)に、伊勢神戸本多侯の典医であった父・利光と、母・のぶの長男として生まれた。
明治9年、9歳で上京後、其角堂永機について俳句の手引きを受け、幼友上田万年(国語学者)と回覧雑誌を発行するなど、文学に傾倒する。
明治17年、17歳の時、仮名垣魯文の弟子となり、ついで『今日新聞』に入社。この頃から文学活動は本格化する。戯作風の続き物やパロディ批評で文壇に登場。やがて花柳小説「油地獄」「かくれんぼ」で作家的地位を確立した。「門三味線」では樋口一葉の「たけくらべ」と競った。
明治30年以降は、「おぼえ帳」以下のアフォリズム(警句)やエッセイが主になっていく。性狷介、新聞社を転々とし、貧窮のうちに肺患のため、明治37年4月13日「僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也」という自分の新聞死亡広告を馬場孤蝶に口述させて、本所横網町に没した。37歳であった。
なお、名批評<三人冗語>の中で、緑雨は樋口一葉の「たけくらべ」を激賞、以降、一葉の死まで二人の交流は続いた。緑雨の弟子としては、小杉天外が唯一といわれている。
(NPO法人 SUZUKA文化塾)
佐佐木信綱
鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)出身 歌人 国文学者
1888年(明治21年)帝国大学(現東京大学)古典科卒業後、父弘綱の志を継ぎ、作歌及び後進育成に当るとともに、歌学研究と著作活動を通じて、歌壇・学界に多大な貢献をした。
歌人としては、1898年(明治31年)、門人組織「竹柏会」の機関誌『心の華』(のち『心の花』)を創刊、短歌革新運動に加わり、「ひろく、ふかく、おのがじしに」をモットーとした。1903年(明治36年)、歌集『思草(おもいぐさ)』により、新派歌人・信綱の名が広まった。
願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはゞやは歌人としての抱負を詠んだものである。主情的で温雅平明な調べは、三重の風土に培われた信綱の人柄と歌風を象徴していよう。歌集は『新月』『常盤木(ときわぎ)』『豊旗雲(とよはたぐも)』『鶯』など、全部で12冊ある。ほかに、文部省唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としても知られる。
国文学者としては、古典の翻刻・活字本による刊行など、古典普及につとめた功績が大きい。1925年(大正14年)には、『校本万葉集』全25巻を完成し、以後の万葉研究に恩恵を施した。『日本歌学史』『和歌史の研究』『近世和歌史』は、和歌・歌学・歌謡研究の成果である。
一方では、生涯にわたって郷土三重の文化振興のため援助を惜しまなかった。生家は鈴鹿市に寄贈され、隣接の佐佐木信綱記念館とともに公開されている。
(鈴鹿市 蔵)
嶋田青峰
答志郡的矢村(現志摩市磯部町的矢)出身 俳人
本名、嶋田賢平。内湾に面した静かな的矢に生まれ育ち、的矢小学校から宇治山田にあった度会郡高等小学校を経て、鳥羽商船予科に入学したが、一年生の途中で東京に移る。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、中学の英語教員や早大講師をつとめ、1908年(明治41年)、国民新聞社に入社。俳人・高浜虚子のもとで文芸欄を担当。虚子退社のあと、学芸部長となった。
俳誌『ホトトギス』の編集を助けていたが、1922年(大正11年)篠原温亭とともに『土上(どじょう)』を創刊。温亭が没した1926年以降は主宰者となった。『ホトトギス』系の立場だが、昭和初期、新興俳句運動が盛んになるにつれ、穏やかな作風ながら、この運動の一翼をになうようにもなる。
太平洋戦争の足音が近づく1941年(昭和16年)2月、俳句弾圧事件に巻きこまれ、治安維持法違反の名で検挙される。喀血がもとで釈放されたが、病床生活が続き、敗戦の報を知ることもないまま、病没した。
句文集『青峰集』(1925年)、『静夜俳話』(同)、『子規、紅葉、緑雨』(1935年)、自句自釈『海光』(同)などがある。弟的浦、長男洋一も俳人。
故郷の的矢を詠んだ句も少なくない。地元の丘には句碑も立っている。
入船を見て立ちつくすふところ手
牡蠣筏(かきいかだ)こゝの入江の潮満つ
真ン中に浮く島の灯や冬港
(志摩市立歴史民俗資料館 蔵)
田村泰次郎
1911年(明治44年)11月30日から1983年(昭和58年)11月2日
四日市市出身 小説家
1929年(昭和4年)、富田中学校(現四日市高校)卒業後、早稲田大学第二高等学院に入学。更に同大学大学部仏文科に進む。高等学院二年生の時、学友と同人誌『東京派』を創刊。創刊号に「意識の流れ統整論」というジョイスの「ユリシーズ」の手法に関連した評論を書く。また、大学卒業直前に『新潮』からの注文を受け、卒業論文には力を入れずに「選手」を書く。そのため、教授会で田村の卒業が問題にされるという「事件」を起こしたりした。この作品は少年剣士たちの烈しい練習と快い疲労とに明け暮れる生活の哀歓を描いたものである。
1940年(昭和15年)4月、応召し、久居の第33連隊に入営する。いったん、除隊の後、同年11月、再応召し、中国山西省遼県の分哨陣地に一兵卒として任に着き、その後、敗戦まで戦場を転々とする。
敗戦後、溜まりに溜まったものを吐き出すかの如き活動が始められる。中国人女性捕虜と一兵士との恋愛を主題とした「肉体の悪魔」、有楽町辺りのパンパンガールと呼ばれた街娼たちを描いた「肉体の門」により、田村のその当時の作品は肉体文学と呼ばれるようになった。これらの作品は、「肉体の門」を例にとれば、劇化されて1000回に及んで上演されるなど、文学の枠を越えて人々に迎えられた。
なお、当館は夫人から寄贈された著書を含む全資料約9,000点を所蔵しており、閲覧もできる。
中谷孝雄
1901年(明治34年)10月1日から1994年(平成6年)12月27日
一志郡七栗村(現久居市森町)出身 小説家
一志郡七栗(ななくり)村(現久居市森町)出身。県立第一中学(現津高校)から三高、東大へ。梶井基次郎らと『青空』を創刊。「春」「くろ土」「春の絵巻」などを発表。その後、『日本浪漫派』創刊に尽力、戦争と切り離せない昭和10年代の文学をリードした一人である。
1929年(昭和4年、東大ドイツ文学科を中退し、福知山歩兵第20連隊に幹部候補生として入隊。除隊時に少尉。
1935年(昭和10年)、保田與重郎、亀井勝一郎などとともに「日本浪曼派」を結成。日本回帰の傾向を示した。
1938年(昭和13年)、武漢作戦にペン部隊陸軍班14名の一員として参加。各種の新聞に通信を送る。翌年、従軍記を「滬杭(ここう)日記」として発表。1943年(昭和18年)、予備役少尉として応召、ニューギニアに出征した。当時の悲惨な軍隊生活を「徒労」(1962年)や「のどかな戦場」(1964年)「その前後」(1966年)などに描いている。1946年(昭和21年)に復員。この時の様子を「梅の花」(1971年)に記した。
また、1972年(昭和47年)には、雑誌『浪漫』の発刊に参画、同人として活躍した。
「のどかな戦場」は兵站(へいたん)部隊(兵器・食料などの補給・輸送に従事)の小隊長として、60名の兵士とともに西部ニューギニアのマノクワリ基地に駐屯していた時の体験譚である。マラリアの蔓延や栄養失調、敵機の来襲など、常に死と背中合わせの状況に置かれながら、戦争という日常を生きる兵隊の姿が淡々と書かれている。「その前後」にも敗戦直後の現地人と兵隊たちの動向が、客観的に抑制された筆致で描写されている。
丹羽文雄
四日市市出身 小説家
四日市の真宗高田派の末寺崇顕(そうけん)寺の長男として生まれる。4歳の時、母が旅役者と出奔する。このことが、作品のモデルだけでなく女性観にも深い影響を与えた。
富田中学校(現四日市高校)卒業後、文学を志し、早稲田大学第一高等学院、同大学国文科へと進む。在学中から同人誌に多くの作品を発表し、寺崎浩、火野葦平らを知る。卒業後も半年程東京に残るが、志半ばで帰郷、僧侶生活に入る。しかし、文学への未練断ち難く、永井龍男の勧めで書いた「鮎」(1932年)が好評だったこともあり、これを機会に再度上京する。上京後、 「贅肉」の"生母もの"や「海面」の"マダムもの"という系列の愛欲の世界を鋭く描いた作品を発表して注目され、流行作家となる。戦時中は報道班員として、「還らぬ中隊」などの"戦記もの"を発表。戦後は、愛欲を中心とした「鬼子母神界隈」などの風俗小説を多く発表した。しかし、中村光夫との風俗小説論争後、「幸福への距離」などの"実験小説"を試みるようになった。「厭がらせの年齢」は今日的問題を含み、評判をよんだ。1953年(昭和28年)発表の「青麦」で父親を書き、父親を考えることから宗教を真正面からとらえるようになった。そして、親鸞の思想をテーマとした"宗教小説"(「親鸞」「蓮如」)へと進んだ。
他方、個人誌『文学者』を刊行し、新人の育成に努めた。四日市市立図書館には「丹羽文雄記念室」が設置されて、多くの資料が集められている。
(四日市市 蔵)
橋本鶏二
1907年(明治40年)11月25日から1990年(平成2年)10月2日
阿山郡小田村(現伊賀市小田町)出身 俳人
俳人・橋本鶏二は、明治40年11月25日、阿山郡小田村(現伊賀市小田町)に生まれた。16歳(大正13年)の頃から俳句に親しみ、『ホトトギス』に投句をはじめ、高浜虚子(きょし)に師事、また、22歳(昭和5年の頃より長谷川素逝(そせい)とも親交を深めるようになった。
昭和18年、『ホトトギス』6月号で初めて巻頭を飾り、さらに昭和20年に同誌3月号の巻頭句「鳥のうちの鷹に生まれし汝かな」は高い評価を受け、その多くの鷹の秀句によって、「鷹の鶏二」として知られるようになる。
昭和30年から名古屋に移り住み、55年に上野市に帰住。平成2年、82歳で没するまで、その生涯において、俳句雑誌『桐の葉』『桐の花』『鷹』『雪』『年輪』を主宰して多くの門人を育てると共に、「中日俳壇」(中日新聞)「南日新聞」(南日本新聞)の選者をつとめる。また、昭和23年刊の第1句集『年輪』以降、没後刊の『欅』に至るまで11の句集、『素逝研究』などの評論・随筆など、数多くの著作を刊行した。
鶏二は、清雅温厚な中に、対象を透徹した眼でとらえ表現した「詠み込んだ写生」の句によって伝統俳句に新境地をひらいた。その作句の姿勢は、「雪月花彫りてぞ詠(うた)ふ」という自身の俳句創作理念に示される。
昭和60年、その功績により、三重県民功労者表彰を受ける。
松尾芭蕉
1644年(寛永21年)から1694年(元禄7年)10月12日
伊賀国上野(現伊賀市上野赤坂町)出身 (一説に伊賀市柘植とも) 俳人
松尾与左衛門の次男で、幼名を金作、長じて甚七郎、忠右衛門と称す。元服後、宗房(むねふさ)と名乗り、また宗房(そうぼう)と音読して俳号にも使った。若いころ、藤堂藩の良忠に仕えたが、良忠が病死したのを機に仕官を断念した。
1672年(寛文12年)、29歳の芭蕉は、上野天満宮に処女作『貝おほひ』を奉納し、俳諧師として世に立つべく江戸に下る。37歳の時、深川に住み、翌年、庭前の芭蕉の株にちなんで「芭蕉庵」と称した。
1684年(貞享1年)、41歳の8月、『野ざらし紀行』の旅に出発、以降10年間、51歳の死に至るまで、そのほとんどを旅で過ごす。
紀行文としては、『笈(おい)の小文』『更科紀行』『おくのほそ道』がある。また、芭蕉のかかわった俳書としては、『冬の日』『春の日』『曠野(あらの)』『ひさご』『猿蓑(さるみの)』『炭俵』『続猿蓑』があり、これらは『俳諧七部集』と呼ばれている。
芭蕉の俳諧は、日本の中世以来の文学の伝統を継承し、それを広く庶民文学の中に生かすとともに、さらに新しく、より深く発展させたものといえよう。「さび」「かるみ」などは、いずれも和歌や連歌などが理想とした美的理念を、俳諧の庶民性の中にあらわしたものである。
芭蕉は51歳の冬、大阪で永遠の旅につく。墓地は近江の義仲寺にあり、また、伊賀上野の愛染院には、遺髪を納めた「故郷塚」がある。
山口誓子
1901年(明治34年)11月3日から1994年(平成6年)3月26日
四日市市および鈴鹿市に12年間在住俳人
京都市上京区岡崎町に生まれる。京大三高時代に「暑さにだれし指悉く折り鳴らす」が『ホトトギス』に初入選、その感覚性のゆえに世人を瞠目させた。東京大学法学部の時に、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)らとともに直接高浜虚子の指導を受けた。ホトトギス派からはは、誓子・秋桜子・高野素十(たかのすじゅう)・阿波野青畝(あわのせいほ)が出て"四S時代"を作った。大学卒業後、大阪住友合資会社に入社。
1941年(昭和16年)9月、肋膜炎の療養のため四日市市富田に移住した。その後、1946年(昭和21年)四日市市天ヶ須賀海岸、1948年(昭和23年)鈴鹿市白子町鼓ヶ浦へと伊勢湾沿いの地を転々とする。1953年(昭和28年)10月に三重県を離れるまで、その間の句を収めたものとして、『七曜』(1942年)『激浪』(1946年)『遠星』(1947年)『晩刻』(1948年)『青女』(1951年)『和服』(1955年)の6冊がある。
誓子の主張する「感動は物から受けたひらめきだ。感動のひらめきは『物と我』とが一つになった状態」という境地は、この北伊勢の自然風土を自らと一体化できるものとして凝視しつづけた中から生まれた。その全生涯の中で最も充実かつ成熟した時期であった。
1948年(昭和23年)には、主宰誌『天狼』を創刊し、「根源俳句」を提唱した。
波に乗り 波に乗り鵜の さみしさは
露更けし 星座ぎっしり 死すべからず
つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華
横光利一
1898年(明治31年)3月17日から1947年(昭和22年)12月30日
阿山郡東柘植村(現伊賀市柘植)および上野町(現伊賀市)に少年時代在住 小説家
父横光梅次郎が関西線の加太トンネル工事で柘植村に滞在し、母こぎくと結婚。利一は父の仕事先である福島県の会津で生まれたが、父の仕事で一家は各地を転々とした。父の単身赴任のため、母・姉とともに母の郷里柘植村で小学校時代の大半を送る。大津の高等小学校から三重県第三中学校(現上野高校)に入学。野球・サッカー・水泳などの運動で活躍する一方、卒業時の校友会雑誌には異色の文体の「修学旅行記」や難解な散文詩「夜の翅」を発表している。
早稲田大学に進み、新聞・雑誌に作品を投稿、やがて菊池寛に師事して川端康成を知る。1923年(大正12年)、「蝿」「日輪」を発表。翌年、川端、今東光、片岡鉄兵らと、「文芸時代」を創刊し、「頭ならびに腹」を掲載。新感覚派と呼ばれたこの派の中心作家として小説・評論に活躍した。
中国民衆の五・三〇事件を題材にした「上海」、ヨーロッパノ新心理主義に関心を向けた「機械」「紋章」などが知られる。「純粋小説論」では純文学と通俗文学との融合や、"第四人称"を提唱した。やがて大作「旅愁」では、日本精神と西洋文明との対決を描いたが、未完に終わった。
小中学校時代の大半を過ごした伊賀の地は、横光の事実上の故郷といえよう。中学時代の初恋の体験を短篇「雪解」に描き、戦後の再出発を図りながら病に倒れた。伊賀での幼年時代の思い出を綴った「洋燈」が絶筆となった。